今日のムラサキツユクサ 20230329 ノイバラの葉
朝7時
車の窓がかなり汚れていました。濡れ雑巾でこすっても取れにくいものが付着していて朝っぱらから難儀しました。
雨どいの近くの株、今日はわかりやすく花が咲いていました。
わかりやすく咲いている二か所ではなく 「左上」ちらりと花弁が見えるのが 今シーズン最初に咲いた花のあったところです。 相変わらずぱっと開くわけではない花を咲かせています。 |
ほぼ中央の花 観察をさぼっていた間に咲いていた形跡があります。 フラッシュ無しで撮ったものは何が何やらわからない状態だったので フラッシュをたいたものだけをアップします。 |
右の方に見える花 これもフラッシュをたきました。 |
この株以外はまだつぼみもついていません。
本日このあたりのエアカウンターの数値は
0.09μ㏜/h
野茨の葉が出そろってきた感じだったので眺めてみました。
20年前の葉の状態を覚えている私としては「だいぶおかしい」と思うわけですがよく見なければ何もおかしいところはない・・・のかもしれません。
半世紀前、私が子供だったころにはアレルギー体質の子供は特異体質と呼ばれておりましたが
今は花粉症でない方を見つける方が大変であるような。
でもウィキペディアを見たらこんなふうに書いてありました。
「特異体質(とくいたいしつ)は、正常な体質の人では反応を示さないはずの食物や薬物などに対し、過剰かつ異常な反応を起こす体質のことである。アレルギー体質や胸腺リンパ体質、滲出性体質などがこれにあたる。食物特異体質や薬物特異体質などに分けられる。食物の場合、食物アレルギーの原因となることが多いものでは、これに異常に反応する特異体質の人が多い。人によっては、特異体質による過剰な反応により、最悪の場合死に至ることもある。」
「がん」にしたって、どうしてこんなに増えてしまったのか。
時代が変わって「当たり前」とされることはどんどん変わっていきますが
人間の体質が変わっていくのは不安なものです。
遺伝子とは遺伝するものですからね。
え?遺伝子治療をすればいい?
やりたい方はやってみればいいでしょうが
私は・・・生き物とは、遺伝子とは、
部分的に切ったり貼ったりしてうまくいくようなそんなに単純なものではないような気がするのでご遠慮申し上げます。
なんでも怖がる非科学的ババアだとわらってくださいww
そうそう、ノイバラの葉を見ながら思い出しました。
小川未明の「野ばら」
青空文庫にありました。感謝です。
小学生のときの国語の教科書(光村図書)に載っていました。
小さい頃の私は思いました、このお話の中なら、私はミツバチ担当がいい、と。
大きな青空、国境などない青空の下に咲く真っ白な野ばらのまわりをぶんぶんとびながら
自由に蜜を集めるハチ。
そしてあの日から40数年
戦争に巻き込まれつつあるこの時、
やっぱり私はミツバチ担当がいいと思いました。
国境のところにある「野ばら」について、
それは「だれが植えたということもなく」
と、小川未明は語ります。
ノイバラのことですから、おそらくは鳥が蒔いたものでしょう。
しかし、
だれが植えたということでもない国境にある「野ばら」がいったいだれのものなのか
大きな国のものなのか、小さな国のものなのか
(もちろん、現実には「野ばら」の一株が国境の目印になるようなことはないはずではありますが)
どちらの国が「野ばら」の向こう側に国境線を引くことができるかという争いが「無い」とは言い切れなくなるのが戦争というもののような気もします。
そして、そんなとき為政者たちと取り巻きはいつも
勇ましい言葉を語って「野ばら」をわがものにしようとするのでしょうが
種を蒔いた鳥もミツバチもそうでしょうし
「野ばら」自身にしてもそうでしょうが
彼らには国境などという概念はなく、
単純に大空の下
ただそこには「野ばら」が「ある」。
何の知識がなくても地球の上に生まれ落ち、
物理や化学を知らなくても、生まれ落ちた次の瞬間から物理的化学的に「優れた性質」を持つ「不思議な物質」である水を、当然という顔をして飲んでいるということと同じ。
また、
おそらくは
大きな国のほとんどの人々にとっても
小さな国のほとんどの人にとっても
一株の「野ばら」がどちらの国のものかはっきりすることよりも
大切なのは
安眠できる暮らし
飢えることなく凍えることのない暮らし。
そう、
雑草のように丈夫な「野ばら」は
雨で地が潤い太陽光を受ければ
真白な美しい小さい花をたくさん咲かせ
良い香りを放ち、虫たちに蜜を与え、
時が来ればかわいらしい実をたくさんつけます。
大きく育てば陰を作り、下草も生え、
ミツバチだけではなくたくさんの生き物が住むことができます。
「野ばら」のはえているその場所は
たくさんの生き物が暮らしている一つの生態系、にぎやかな生活の場、
それは名もなき人々の日常、ささやかな幸せのようです。
放射能汚染も無視し、
極端な超過死亡も無視し、
劣化ウラン弾は安全と言い放っているような人々が
もれなくその行いにふさわしく正しく取り扱われますよう
そして小さき者たちの流した涙のすべてが
一人の欠けも、もれもなく
決して忘れられることがないよう
心からお祈りいたします。